フラシティいわき

いわきフラレポート

IWAKI HULA REPORT
フラシティいわき インタビュー Vol.002

フィオアフラニ舟木フラ教室 代表 舟木君子先生

 

Q: 舟木先生は、ダンシングチーム創成期では珍しい県外のご出身でらっしゃいます。
 いわきにいらした当時のことを伺えますか?

 

 私は、秋田県の象潟町(現在のにかほ市)の出身で、父は漁師。

 常磐ハワイアンセンターが開業したての昭和41年1月に、文通していた友人の誘いで初めていわきに来ました。暖かくて雪がなくて、なんていいところだろう!と思いました。

 常磐ハワイアンセンターと白水阿弥陀堂を見物して帰ろうと思っていましたが、その友人は常磐ハワイアンセンターの食堂で働いていて、彼女の寮の部屋に泊めてもらうことになり、ついでにウエイトレスのアルバイトとして手伝うことになりました。

 本当に軽い気持ちでした。まさか、ダンサーとして働くことになるなんて、思ってもいませんでした。

  

 ほとんどが地元出身のダンサーたちの中で、苦労したこともやっぱりありました。

 まず、言葉。自分は標準語で話しているつもりでも、私の秋田弁が通じないんですもの。そして、炭鉱のまちの文化を若かった私は理解できていなくて、何気なく言ったことで同僚たちの反感を買うようなこともありました。

 会話を避けて一人で過ごすことも多かったので、後輩たちからは、公私をきちんと分ける厳しい先輩だと思われていたようです。今になって、私がこんなにおしゃべりだったことに驚く人がいるくらいですよ(苦笑)。

 

 でも、いわきの暖かくてのんびり穏やかな感じに助けられたり、食堂のおばちゃんやお掃除のおばちゃんに「秋田から来たんだから、がんばりなさいよ」って声をかけてもらったり、たくさんの人にやさしくしてもらって、やってこられたんだと思います。

 

 

Q: 「学院生の踊りの基礎をつくったのは豊田(現・小野)恵美子、心の基礎をつくったのは兵藤(現・舟木)君子」と、お聞きしました。
 在任期間8年は歴代最長、ダンシングチーム第2代リーダーだった当時のことをお聞かせください。

 

 地元出身ではない私がリーダーになることは、私自身が最も抵抗がありました。

 初代リーダーの豊田(現・小野)恵美子さんは、本当にすばらしい踊り手ですし、私なんかに務まるのかしらって。

 私が大切にしたことは、まずは寮生活のルールをきちんと守ることです。ダンサーはきっといつか引退する時が来る、それからの生活に役立つようにと、掃除や洗濯、着付けや生け花など、生活班を作って自分磨きにも取り組みました。

 今でも、後輩たちは、あの時の経験があったから良かったって言ってくれます。

 本当は、私が神経質だっただけなんですけどね(笑)。

 

(聞き手:後輩の皆さんは「お母さんのように面倒をみてもらった」と先生のことをおっしゃいますよね?)

 

 先輩として、できることは精一杯するようにしていました。

 親に不幸があったときは、お葬式の支度を整えてあげて送り出しました。まだまだ、困っている人がたくさんいた時代でしたからね。

 私の成人式の着物は、何人着たかわからないくらい貸し出して、今も行方不明なんです。必死でお給料を貯めて買ったものだったので、せめて帯くらいは戻ってきてほしいんですけど……(苦笑)。

 

 リーダーだった期間は、何度も辞めようかと思いました。どんどん上手な後輩たちが入って来る中で、人の上に立ち続けるのって、やっぱりたいへんなことでした。

 孤独に耐えようとがんばっていたときは、「一番になってから辞めてこい」という、亡くなる前の父の言葉が支えてくれたように思います。

 父にはダンサーになることを反対されたままでしたが……。

 振り返ればいろいろありましたが、私は、生まれ変わったら、またフラダンサーになりたいと思っています。次は、今よりもっともっと一生懸命勉強しますよ!

 

 

Q: 引退後は、指導者としてフラを長くお仕事にされてきました。これまでを振り返られていかがですか?

 

 フラを仕事だと思ったことは、正直一度もないかもしれません(笑)。

 子育てが一段落したころ、公民館の市民講座で教えるようになりました。そこで最高の仲間たちと出会えたことが、とてもありがたかったです。

 

(聞き手:先生は、生徒さんを「仲間」とお考えなのですね?)

 

 そう、「仲間」だと思っています。今、教えているのは80名くらいで、年齢的には、私より先輩の人が多いんですよ。

 月2回のレッスンですが、一生懸命な姿がとっても素敵で、私の大好きな人たちです。中には、闘病中や病気を経験された方、立つことが難しい方もいますが、3か月もフラを経験すると、すっかり魅力にはまっちゃいますね。フラの持つ力は、本当にすごいなと思います。

 フラは体に負担が少ない踊りなので、年齢や体調など、そのときに合った表現の仕方をすれば、だれでも踊れます。

 私自身、妊娠4か月まではステージに立っていましたし、出産予定日の20日前までリーダーとして指導もしていました。

 

 私がこうしてフラの指導を続けていられるのは、カレイナニ早川先生に巡り会えたからだと思っています。

 今も、ダンシングチームOG会として月1回のレッスンを受けると、現役ダンサーの頃の雰囲気がよみがえって不思議な気持ちになります。

 フラは、長く学べば学ぶほど、表現の難しさを知ることになります。そんな時はいつも、早川先生に教わった、日本人が一番きれいに見えるフラの基本に立ち返って教えています。

 体を壊さない基本を、私も口うるさく指導していますし、一曲の中に色々な基本の動きを盛り込んで、全員で踊れることを大事にしています。

 

  

Q: 東日本大震災発災後、早い時期からフラで慰問活動を始められたと伺いました。当時のことをお聞かせいただけますか?

 

 2011年4月3日、避難所になっていた、いわきアリオスの正面入口で踊ったのが一番最初です。

 それから、福島県立湯本高校や、いわきゆったり館など、他の避難所へもおじゃまするようになって、何十か所も回りました。

 私たちの活動は、スパリゾートハワイアンズの現役ダンシングチームの慰問事業につなぐこともできました。

 

 あの時、実はとても悩みました。

 避難所で本当にフラを踊って良いのか?衣装を地味にした方が良いのか、つけまつ毛はしない方が良いのか……。

 でも、まつ毛は、私たちにとって「スイッチ」みたいなものです。いつも通りにお化粧して、精一杯きれいに着飾って、笑顔で踊りました。

 そうしたら、避難所のお客さまたちも、みんなニコニコ、ニコニコ、お顔が変わっていくのがわかりました。

 

 慰問している私たちも、どこか精神的に不安定でしたが、踊って癒されたように感じました。あぁ、やっぱりフラっていいんだな、フラをやっていて良かったと、つくづく思いました。

 そして、フラは、こんな悲惨な災害のときにも力を発揮してくれて、このまちにフラがあって本当に良かったと思いました。

 

 

Q: 「フラシティいわき」のまちづくりに、望まれることは?

 

 フラを盆踊りの感覚で、気軽にみんなで踊れたら素敵だろうなぁと思っています。

 フラは、とても懐の深い踊りで、工夫すれば、だれでも踊れます。イスに座ったままでも大丈夫ですから、広げていきやすいと思います。

 1年に1回でもいい、だれでも無理なく輪に加われる、やさしいフラを、いわきの皆さんに踊ってもらいたいですね。

【インタビュー:2019年(平成31年)4月】

 

◆ インタビューの様子を動画でご覧いただけます。

 

【参考文献】

  • 清水一利『常磐音楽舞踊学院50周年史 フラガール物語』(講談社、2015) 
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